そうだ、弱い人間は逃げればいい。
眼鏡の男子生徒に、中学時代の自分が重なる。
私は負けない。そうだ、私は逃げなかった。
お前は、なんて強いんだ。
耳元で囁く。
どんな状況でも、お前は絶対に逃げないんだな。そんなお前を、俺は尊敬するよ。
そうだ、私は負けない。絶対に逃げない。
どんな手を使ってでも、唐渓を生き抜いてみせる。
グッと決意する緩の背後から恭しくかかる声。
「ありがとうございました」
現場から離れ、男子生徒たちの姿がもう見えなくなってしまったところまで来て、後ろから少女が声をかける。その言葉に緩は立ち止まった。
「別に、大した事ではありませんわ」
そうして、ハンカチでワザとらしく口を拭う。
「あのような礼儀も弁えない不届きな生徒には、きちんと伝えるべきですもの」
そうしてクルリと振り返る。
「そもそも、あのような低俗な生徒が私たちと同じ学校に通うという事自体、由々しき問題ですわ。通えるというだけでもありがたい事なのに、スカートに触れるなどという失態を犯しておきながら開き直ろうなんて、許してはおけません」
「本当に」
一人が即座に同意する。
「緩さんの言う通りですわ」
もう一人、スカートを触れられたと言い張っていた少女も頷く。
「これだから庶民は嫌なのよ」
「非常識な上に口だけはよくまわるのだから、厄介ですわ」
「緩さんがいてくださって、本当に助かります」
「あらあら」
持ち上げられ、内心ではまんざらでもないが表向きは何でもないという表情の緩。
「本当に大した事ではありませんわ。私の力と言うよりは、むしろ廿楽先輩のお陰ですもの」
「あら、そんなご謙遜を」
「そうですわ。その廿楽先輩がお認めになったのですもの。緩さんって、すごいですわ」
同級生の言葉に、すばやく生唾を飲む緩。
本来、緩はさきほどの男子生徒と同じ立場にあるべき生徒。蔑まれ、咎められれば反論のできる立場ではない。それほど家柄に恵まれているわけでもない緩が逆に堂々と他生徒を面詰できるのは、廿楽という存在のお陰。
こうやって同級生が取り巻き、寄り付くのも、廿楽華恩という後ろ盾があるから。同級生が頼ってくるのは、緩本人ではなく、その背後の存在なのだ。
だからこそ、緩は廿楽から離れるわけにはいかない。
絶対に―――
他の二人には悟られぬよう、そっと右手を握りながら、だが心のどこかがチクリと痛い。
こんな私は、心が穢れているのだろうか?
そんな事はない。
優しい声が耳に囁く。
君は心の清い人だ。僕はそれを知っている。
時に低く、時には切なく響く声。だがどんな時でも緩を支える。
唯一緩を支え、緩を理解してくれる存在。緩が心から安心できる、疑う事もなく抱きつける存在。
決して緩を裏切らない存在。
僕は君が好きだ。君のような心優しい真直ぐな人が、僕は好きだ。
「金本さん」
背後から声をかけられ、緩は半ば飛び上がるように振り返った。同じように二人も振り向く。
相手は同じクラスの女子生徒。
「何か?」
見下げるような視線を受けて、女子生徒はおずおずと口を開いた。
「あの、先ほど教室に、上級生の方がお見えになりましたわ。何でも、廿楽先輩がお呼びだとか」
「廿楽先輩がっ」
すばやくスカートのポケットに手を当てる。
用事があるなら携帯で呼び出されるはずだ。
取り出すと、やはり着信を示すランプの点滅。
マズイッ
男子生徒との会話に集中していて、廿楽からの電話を無視してしまった。
「あの、昼休みの間に生徒会副会――――」
「すぐに行くわ」
相手の言葉を遮るように短く告げ、緩はもう半分走り出していた。
なんだったのだろう?
美鶴は歩みを少し落とした。
明らかに変だったよな?
思い返すのは瑠駆真の顔。
東洋と西洋を程よく織り交ぜた、甘くとも甘すぎない絶妙な顔立ち。彫の深い場所に配置された大きく黒々とした瞳が、剣呑な光を放つ。
あの時の瑠駆真は、明らかに動揺していた。危険とまでは言わずとも、相手に対して敵意すら抱いていたかも。
駅舎に小童谷という生徒が現れてから、二週間ほどが過ぎようとしている。あれ以来、小童谷は駅舎には来ていない。
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